「ミノニヨクシティ」#32【考察】住人たちは精神操作を行われている?!(中)【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。ミノニヨクシティの住人たちが精神操作をされている可能性について考察していきます。

こんにちは、Caffeineです。
前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」の世界で行われているかもしれない「精神操作」について考察を続けていきます!

前回のエントリ(【考察】精神操作・前編):
「ミノニヨクシティ」#31【考察】住人たちは精神操作を行われている?!(前)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。ミノニヨクシティの住人たちが精神操作をされている可能性について考察していきます。 こんにちは、Caffeineです。 今回は「ミノニヨクシティ」をプレイするなかで気づくであろう「違和感」の原因、「死後の世...

死者の魂は精神・記憶を操作されている?

前回は、もし精神や記憶をされているとして、「誰がしているか?」という情報について考察しました。その端緒として、ジェミニの母親の写真や、ピギュラの店の前の住人について、確認しました。今回はさらなる情報を参照して、考察を進めていきましょう。

自覚前の姿も上書きされる

前回のジェミニやピギュラの店の前の住人以外にも、記憶を失っているような描写が見受けられます。ユウヤは自室にピギュラの絵を飾っていて、調べると以下のメッセージが表示されます。

…なぜか、懐かしい気持ちになる絵だ。

どうやらユウヤはピギュラのときのことを憶えていない様子です。もし憶えているなら「懐かしく感じるのは、自分の自覚前の姿だから」と理由はハッキリしています。憶えているなら、「なぜか」と理由がわからないかのように述べる必要はありません。

上書き保存

これはピギュラが自覚してユウヤになった後、もしくはカラコロが自覚してショータになった後、彼らがかつてピギュラやカラコロであったことを住人が忘れてしまうことからもわかります。どうやら自覚前の状態のことは「上書き保存」されて忘れてしまうようです。

それだけでなく「上書き保存」されてしまっていることに違和感をもたず、違和感がないこと自体に疑問すらもたないようです。

違和感がない

この2点はやや理解しにくいところなので、少し細かく説明をしておきましょう。「違和感がない」というのは、1つめの「精神・記憶操作」だと疑わしい点です。

これはピギュラを操作し続けてきた私たちプレイヤーから見ると、ユウヤを見たミノニヨクシティの住人たちが「ピギュラ」という存在を忘れている、という点をさします。彼ら住人は、ピギュラに関する自分たちの記憶が操作されていることに気がついていないのです。

違和感がないことに無自覚

そして「違和感がないこと自体に疑問をもたない」というのは次の段階です。ユウヤに限らず、自覚した住人たちは誰しも「自覚前の姿」をもっているはずだと考えられます。しかし自覚した人々のなかで、「私たち住人は自覚した後でも記憶操作を行われている可能性がある」と気づく者がいないのです。

もしこれに住人たちが気づけば、住人たちは死後の世界に疑いをもつようになるはずです。以前「私(caffeine)が悪逆非道な管理者だったら」というシミュレーションを行いましたが、その際に「悪い企みをするときに大事なのは、信じさせて疑いをもたせないこと」だと述べました。それがこの点に繋がるのです。

あのシミュレーションでは特別な能力がない管理者として考えていましたが、もし「精神操作」「記憶操作」の能力があれば、もっと管理は楽になります。なぜなら都合の悪い記憶を消したり反乱する気持ちを抑えたりする操作をしてしまえば、反逆の可能性は限りなくゼロに近づくからです。

逆に考えると、システムを改善する改革者は「どこが悪いのかを知っている」必要があるので、どこが悪いか理解させなければ永遠に改革者は現れないのです。

もしこれがミノニヨクシティのある死後の世界で「意図的に」行われているとすれば、たとえゲームのエンディングでユウヤや他の住人たちが幸せそうに見えても、仮初でしかないことがわかります。

自覚前はなぜ生前の記憶がないのか?

記憶操作の可能性についてもっと根本的な例を挙げるなら、ピギュラをはじめとして「自覚していない」住人たちは、なぜ生前のことを記憶しておらず忘れているのでしょうか? 生前のことをそもそも忘れなければ、「自覚」もなにもないので、「自覚してはいけない」というよくわからない半端な規律すら存在しなかったはずです。

前回の「神のしわざ」と考えるときのように、こうした事象がもはや死後の世界の理だというのなら、どうしようもありません。ひとまずこの記憶喪失についても、それが理である可能性を踏まえた上で、脇へ置いておきましょう。

いずれにせよ、この死後の世界に住む際に姿が変わり、記憶もほとんど失われて別人になってしまう、というのも、ジェミニが写真の汚れに気づかないことや、住人が自覚した後は本人を含めてほとんどの住人が自覚前の状態を忘れてしまうという状況と、記憶が操作されるという点でとても似ています

記憶操作の酷さ

記憶を失うことや、記憶が操作されること、そしてそれに違和感をもたないことの例についてはもう充分でしょう。話を次に移しましょう。

私はこれが世界の理かどうかは別として、かなり残酷なシステムだと感じています。先程も述べたように、たとえ自覚したとしても自分が操られていることにすら気づかないようにされている可能性があるので、「精神・記憶操作をなくす」という改善はほぼできないでしょう。これだけでも絶望的ですが、それだけではありません。

この記憶操作が続く限り、住人たちは直接的な害を受け続けていることになります。その理由は、操作がおおむね本人の意志とは別に行われているので、対抗手段がほぼないから、つまり端的にいって「洗脳」と変わらないという点に収束されます。

愛忘失苦

日本には四苦八苦ということわざがありますが、これはもともと仏教的な言葉です。四苦は、生老病死という4つの根本的な苦を意味します。そして残りの4つの苦、愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五陰盛苦を足して八苦となります。このうち愛別離苦(あいべつりく)は読んで字のごとく、愛する人と別離する苦しみを意味します。

この別離は、特に意味が限定されていないようです。死別はもちろんのこと、離婚のように仲違いをして別れてしまうのも含まれるのでしょう。もしくは仲のよかった子供同士が引っ越しで会えなくなることや、家族離散というのもこれに含まれうる苦しみです。

愛する人と別れることが苦しみであるなら、愛する人を忘れてしまう「愛”忘失”苦」もあっていいのではないでしょうか? 少なくとも「ミノニヨクシティ」の世界ではそうした苦もあると想定できそうです。

忘れる苦・忘れられる苦

人によっては死ぬことより忘れ去られてしまうことのほうがつらいと感じる人がいます。原因はどうであれ、忘れられてしまうことはたしかにつらいものです。もし私たちが誰にも知られず見られず覚えられない存在であれば、他人からすると「存在しない」も同然です。そのため忘れられることは大きな苦痛となります。
そして「忘失される苦」があるなら「忘失する苦」もあるでしょう。

私たちが両親などを失った後、両親を失った悲しみから解放されるために「両親がいたこと」自体を忘れるかどうかと問われれば、忘れるでしょうか? 多くの人は忘れない選択をするでしょう。なぜなら悲しくとも「存在を忘れる」ほうが不義だからです。そして失うことより忘れることのほうが、苦しみが大きいことがあるからです。

病気や事故で脳に障害を負って、家族などのことを忘れてしまったり、家族だと認識できなくなったりすることがあります。この場合、忘れてしまう側は脳に障害があるため、実際にはどう感じているのかはその立場になってみないとわかりませんが、しかし忘れられた家族にとっては、非常につらい苦しみとなるでしょう。

「気づかない」「忘れる」という安らぎ

それではその忘れてしまう苦しみ自体に気づかず、それすら忘れてしまうというのはどうでしょう? 「愛忘失苦」を忘れてしまうのです。ともすれば、これは「安らぎ」に感じられるかもしれません。なぜなら明らかな苦しみを自覚せずに済むからです。そうです、「自覚」をせずに済むのです。

この安らぎは「愛忘失苦」に限らず、すべての苦におそらく適用できるでしょう。苦を自覚しないほうが楽なのです。死の怖れにおののくことは、怖れおののく暇もなく死ぬことで免れます(死の苦しみからは逃げられませんが、死に怯える苦からは逃げられます)。それと似て、死ぬそのときまで死ぬ苦しみ(痛みは別です)に気づかないでいられれば、それはそれで幸せかもしれません。

重い病にかかったとき、親密であればあるほどその人に事実を伝えるのは困難です。なぜなら病にかかったことを知るのは、たとえ自分のことでなくても大事な人のことならつらい事実であり、重ければ重いほど猶予は短くなってしまうからです。そのためあえて「伝えない」という選択肢を考えることもあるでしょう(それが最善かどうかはやはり別です)。

「この世の限り」

私はときおり椎名林檎の歌を聞くのですが、実兄の椎名純平とのデュエット「この世の限り」は珍しく前向きな曲で、聞きごたえがあります。英語の歌詞が大部分なのですが、日本語の部分もあるためテーマはとてもわかりやすく、「この世の限りが見えてやり尽くしたら、何度だって忘れて新しく出逢おう」という歌です。

おそらくこの忘却の安らぎは、人生に限りがあっていずれ尽きるとわかっている儚い人間だからこそ感じられるのでしょう。永遠に生きるのであれば、忘れたところで自分が変わらない限り繰り返すだけですから、忘れることはなんら根本的な解決になりません。人の場合は、忘れることが無意味だと気づく前にいずれ死にます。

大前提「思い出さない」

また忘却することが安らぎであることの大前提は、「思い出さない」ということです。思い出したら改めて苦が目の前に現れるだけです。自分で忘れたときは「馬鹿だった」で済みますが、強制的に忘れさせられていた場合はむしろ忘れさせられたこと自体が怨みに繋がりかねません。つまり苦が増えるのです。

しかし誰にでもわかるように、「思い出さない」という前提は簡単に崩れます。家の鍵を閉めても、「絶対に開けられない」状態にするのは困難なのと同じです。開けられないように努力することはできますが、合鍵を作られたり鍵を壊されたりすれば、無意味です。荒っぽく考えるなら、窓を割ったり壁を破ったりすれば太刀打ちができないのです。

そのため「忘れさせることで得られる安らぎ」は、ほとんど一時しのぎでしかないことが約束されていて、基本的に「忘れさせたことに気づかれる前に終わってもらう」ことが目的とすらいえる行為なのです。人間でいえば、忘れさせたことに気づかれる前に、その人が寿命であれ病気であれ死んでしまえば、永遠に苦に気づかずに済むのです。

永遠に生きるなら、忘れてもいずれ思い出される

しかしミノニヨクシティの世界では、そうもいきません。なぜならそこの住人はもうすでに死んでいるからです。死後の世界の住人がそこで死ぬことがありうるのかは不明ですが、基本的に輪廻道へ入って生まれ変わることが道理であり、イザナイが永遠に生きる(活きる)ことを責めるように、輪廻道へ入らない場合は永遠に生き続けられるものと考えられます。

そんな世界では、「忘れさせたことに気づかれる前に終わる」という救済が、意味をなしません。そもそも輪廻道へ入るには自覚する必要があります。輪廻道へ入らない限り生まれ変わって死後の世界から旅立つことができないのだとしたら、いくら忘れさせたとしても絶対に気づかれてしまうのです。

もちろん要領の悪い住人であれば、いつまで経っても自覚せずに箱庭に住み続けることもあるでしょう。しかし水が入ったコップを放置していれば、いずれ乾いて底が見えてしまうように、長い時間をかければ誰だって気づくというものです。「なにかがきっかけになってコップに水が足されるかもしれない」というのは、あまりに楽観的です。

「暴れる自覚者」の怒り

そのため死後の世界で「忘れさせる」という安らぎは、とても効果の薄いシステムであるとわかります。どういう原理かはわからないながら住人たちは記憶を消され(望まざる記憶操作)、生前のことを忘れる苦しみを課せられ(愛忘失苦)、しかも記憶を消されて生前のことを忘れていても不思議に思わないように操作されている(洗脳)という状態なのです。

ミノニヨクシティの住人は、優しい住人に囲まれて生きたほうが忘れさせられた怒りよりも価値があるので、自覚した後もミノニヨクシティに住むことを選んだといえます。他の箱庭なら、自覚したときに死んだ苦しみと忘れさせられた怒りから、暴れてしまってもしかたないとすらいえます。

そう捉えてみると、管理者としての凶やサトリ・ミトリの認識の甘さが目立ちます。もし死後の世界に来たときにはどうあがいても記憶をなくしてしまうという望まない記憶操作があるなら、その記憶が戻ったときに「お前が記憶を消しやがったのか」と責任をなすりつけられないようにすればいいのです。以前から述べているように、住人には必ず最初に「あなたは死者です。そしてここは死後の世界です。あなたは生前のことを忘れていますが、思い出す手助けを私たちはします」と協力すれば、少なくとも暴れる危険性をかなり回避できるはずです。

プレイヤーは影響外

記憶を失うというシステムが、凶やサトリ・ミトリの思惑なのか、それとも自然にそうなってしまうのかはわかりません。しかしそのシステムのある世界で住人を管理する者として、凶やサトリ・ミトリは管理能力に乏しい可能性があると示してきました。

実はこのような状況に気づける人物が、記憶喪失システムをしかけたであろう者(凶たちやサトリ・ミトリか、神なのかはわかりませんが)以外にもいます。それは私たち「プレイヤー」です。

通常、ゲームでは主人公とプレイヤーが非常に密接に関わるため、「プレイヤー=主人公」の図式が成立します。しかし厳密には「プレイヤー≒主人公」にすぎません。私たちはピギュラを追うカメラを通して、ゲームのなかの世界を見ているだけなのです。

そのためユウヤが記憶を上書き保存されてピギュラのことを忘れても、私たちプレイヤーはピギュラとユウヤのことを「名前を付けて保存」しておくことができるので、この違和感に気づけるのです。そしてこうして気づいた違和感から、他の住人が上書き保存されている可能性があることも、ジェミニが母親の写真に違和感を抱いていなさそうなのも、妙だと感じることができるのです。

それは私たちがゲーム外の存在であり、サトリ・ミトリの管理外にあり、ミノニヨクシティをはじめとした死後の世界の神の影響からも、解放されているからなのです。

次のエントリ

次回のエントリでは、「精神操作」についてまとめていきます。

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